須田寿 作品一覧

須田寿の作品一覧です。作品画像をクリックすると詳細がご覧になれます。
※ 掲載作品は常時画廊で展示されているとは限りません。直接ご覧になりたい場合は事前にご連絡ください。
須田寿作品一覧作家名タイトル技法サイズ
須田寿「鳩と壷」 須田寿 鳩と壷 キャンバスに油彩 F8号
須田寿「ノートルダム寺院」 須田寿 ノートルダム寺院 キャンバスに油彩 SM
須田寿「石」 須田寿 キャンバスに油彩 P30号
須田寿「船とつる草」 須田寿 船とつる草 キャンバスに油彩 F8号
※ 掲載作品以外にもご紹介できる作品がある場合も御座います。売却済等でもお気軽にお問い合せください。

須田寿 作品へのお問い合わせ

須田寿作品の問い合せ 須田寿作品へのお問い合わせは左のボタンよりお問い合せフォームにて承ります。なお、恐れ入りますが全ページ共通の問い合せフォームとなっておりますので、特定の作品に関するお問い合せは販売IDと画家名、タイトルを必ず本文内に含めて下さいますようお願い致します。
(例)
須田寿「石」油彩30号の購入値段について。(710095)

須田寿 作品の買取価格一括査定

絵画・美術品の売却・買取価格同時一括査定依頼 須田寿作品の買取価格同時一括査定を行っております。一度の査定依頼で複数の絵画・美術品業者よりオークション落札価格等の市場相場に基づく買取査定価格が提示され、そのなかで一番高額な買取査定価格を提示した業者をご紹介致します。
須田寿作品の売却をお考えの方は左記ボタンより是非買取価格同時一括査定をご利用ください。

須田寿 略歴
すだひさし - Hisashi SUDA Profil -
1906年 5月25日東京日本橋本町の門井守次郎四男として生まれる。
1913年 九段、精華小学校に入学。遠縁に日本画家下村観山がおり、横浜のアトリエにしばしば遊びに行き、日本画家の生活にふれる。
1919年 成蹊中学校(当時は池袋)に入学、五年修了後卒業期を控え画家を志望、日本画家志望者は周囲に多いため、洋画(油絵)を勉強しようとする。
1923年 関東大震災にて実家焼失、住居を転々とする。中学校を卒業後、東京美術学校(現・芸大)洋画科を受験して不合格。
1924年 川端画学校(研究所)にデッサン(石膏)修業したが、翌年も不合格。
1926年 東京美術学校洋画科に入学。長原孝太郎先生に指導を受ける。
1927年 美校二年、学期末休暇を利用して友人と中国を旅行し、北京に二ヶ月滞在、国民党の北伐に際し、北京居留民引き揚げと共に帰国させられる。
1928年 美校三年、和田教室に編入され、和田英作先生の指導を受ける。
1930年 第11回帝展に「裸婦」初入選。
1931年 親戚須田家の養子となり、美術学校卒業後、世田谷宮坂にアトリエを建てる。第12回帝展に「裸婦」入選。
1932年 篠原清子と結婚、急性腹膜炎になり手術、一命をとりとめる。その年の出品とりやめる。
1933年 第14回帝展に「三人」入選。
1934年 この頃より阿以田治修氏に師事し、第1回グループ展を資生堂画廊にて開く。大貫松三、榎戸庄衛他五人展。第15回帝展に「庭園小景」入選。
1935年 帝展は師和田英作が主軸になって行った。世に言う松田改組失敗にて二部会生れ、出品に迷ったが、結局「庭前」出品。木村荘八に認められる。
1936年 当時官展に新鋭グループと称し、立陣会が出来(石川滋彦井出宣通・川端実等12名)、その第2回から参加、青樹社(銀座)にて毎年発表。新文展(二部会解消)に「蔭に憩う」出品。
1937年 この頃より作風が変わり、翌年の「水辺」は官展風には問題ありと、立陣会の新傾向の絵は皆落選する。その後も傾向変えず落選続く。
1939年 第3回文展に「親爺と子ども」がやっと入選。
1940年 この頃、官展内に無所属であった審査員級の人達によって創元会創立(中野和高・鈴木千久馬・佐竹徳・大久保作次郎・安宅安五郎・阿以田治修等10名)。第11回展に参加、「裏庭」出品受賞。
1941年 創元会も第1回展にて創立会員内の確執で解散。第二次創元会再興のため、事務所の運営に当たる。
1942年 第2回創元会を開催(上野美術協会、現上野の森美術館)、「夏童」出品。
1943年 この頃より太平洋戦争苛烈になり、文展は休催。創元会は都美術館に移り、第3回創元会に「室内裸童」出品。
1944年 戦時中特別文展に「群鹿」出品。第4回創元会に「白容」出品。この頃よりモチーフも傾向も制約される。空襲盛んになり、福島県磐城石川に疎開する。
1945年 終戦。戦禍をまぬがれた世田谷の家に還る。
1946年 戦後すぐに創元会開かれ、また第1回日展に「暖日」出品。
1947年 戦後の画壇も活発になり、4月現代日本美術展(東京都主催)に「群鶏」出品。6月第1回美術家連合展(毎日新聞社主催)に「牛」出品。10月第2回日展に「秋童」出品。
1948年 第7回創元会に「風景」出品。5月三越本店にて第1回個展開催。6月第2回美術家連合展に「静林」出品。第3回日展に「家鴨」出品、特選になる。
1949年 この頃より日展のあり方に同調しがたく、かねてからの同志7名(牛島憲之・飯島一次・大貫松三・榎戸庄衛・円城寺昇・山下大五郎等)にて創元会を脱会、同時に今後日展(官展)に出品せず、公募展に対する批判をもってグループ形式の会「立軌会」を創立。
1950年 第1回秀作美術展(朝日新聞社開催)に前年度の立軌展出品作「卓上静物」が選ばれる。4月六窓会創立(美校昭和六年卒)、メンバーは日本画-東山魁夷・橋本明治加藤栄三・山田申吾、油絵-佐藤敬・伊勢正義・大貫松三・須田寿、彫刻-大須賀力・黒田嘉治・長沼孝三・野々村一男、工芸-内藤四郎、建築-吉村順三、高島屋美術部にて第1回展開催。
1951年 第2回秀作美術展に第2回立軌展出品作「裸婦」選ばれる。5月三越本店、第2回個展に「卓上静物」を出品。
1952年 第3回秀作美術展に前年の個展出品作「卓上静物」が選ばれる。6月白木屋(東急日本橋店)に六青会を創る(麻生三郎・牛島憲之・中谷泰・中田好江・吉岡憲・須田寿)。7月第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「鳥をだく少年」「少女の像」を出品。
1953年 3月資生堂画廊にて個展「卓上静物」等を出品。4月六窓会は展覧会終了後解散。第2回日本国際美術展に「静物」他1点を出品。
1954年 六青会は三回やり、白木屋改築のため休止。日本国際美術展は隔年となり、この年は第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)を行う。「卓上静物」「厨房静物」を出品。9月渡欧、フランス・イタリア・スペイン・ベルギー・オランダなどを巡遊。
1955年 第3回日本国際美術展に帰国後作品「追憶」「庭園」を出品。第7回立軌展に「牛を売る」を出品。
1956年 立軌会はこの年より会員増強のため一般公募でなく、会員公募を行い5名増員する。第7回秀作美術展に前年の立軌展出品作「牛を売る」が選ばれる。
1957年 武蔵野美術学校に講師として招聘される。
1958年 新宿風月堂にて個展。栃木県鹿沼市庁舎ロビーに壁画制作、大谷石壁に線彫りにて行う。第10回立軌展に「栃木の牛」を出品
1959年 第11回立軌展に「壺のある風景」その他を出品。神奈川県伊東一碧湖国際ホテルロビーに壁画制作。
1960年 第12回立軌展に「走る牛」他を出品。
1962年 北海道で第1回個展を札幌三条会館で行い、北国の風物に接して大いに制作の意欲わく。
1963年 北九州の装飾古墳を見学して、大いに感銘し、第15回立軌展には古墳シリーズ的作品を出品。
1964年 第2回札幌展を行うと共に北の風土から制作、「北の人」「北の海」等の作品を立軌会に発表。10月資生堂個展には「タルキニアの牛」等を出品。
1965年 武蔵野美術大学専任教授になる。
1968年 立軌会は創立以来の三越会場が手狭になったため、西銀座松田ビルに新設のセントラル美術館に移り、二十周年記念展を開催、「湿原」他を出品。
1969年 1月第21回立軌展に「追憶」「鶏をだく少年」を出品。同時にギャラリーオカベにて淡彩・デッサン展を開催する。この頃学園紛争にて学校一時閉鎖事件あり。
1970年 二年続いたセントラル美術館閉鎖のため、三越銀座店にて第22回立軌展を開き、「風」一点を出品。5月日動サロンにて個展。九叢会創立(会員-角浩成井弘・南政善等九名)丸の内大丸にて開催。ギャラリーオカベにて第2回デッサン展「京都シリーズ」を行う。
1971年 第23回立軌展に「雲」「丘」2点を出品。再渡欧。
1972年 銀座に東京セントラル美術館(彩壺堂経営)が誕生したので、ここを会場と決め、第24回立軌展開催「壺のある風景」他に点を出品。5月ヨーロッパ旅行に約1ヶ月行き、古代ヨーロッパ美術を研究する。
1973年 2月第25回立軌展に「追想」「古都」を出品。3月ギリシャ方面旅行にて三年続けてギリシャ古代文明を探る。7月セントラル・サロンにて個展、ギリシャ取材の発表をする。
1974年 第26回立軌展に「クレタの牛」「エーゲ海」等を出品。東京セントラル美術館の「上野の森八十五周年展」に前年度の「追想」「野の花」を出品。5月ジェイコ画廊(渋谷)に旧作41点出陳。
1975年 第27回立軌展に「横たわる人」「鳥」を出品。3月フジテレビのテレビ美術館、ミュージックギャラリーにて作品紹介される。11月ギャラリーミキモトにて「神々の山」他20点出陳。
1976年 第28回立軌展に「ある風景」「草原にて」を出品。いずれも古代ギリシャより発想。12月武蔵野美術大学資料図書館にて須田寿教授作品展開催、自選作40点出陳。
1977年 第29回立軌展に「ローマの影」「廃墟と松」を出品。11月東京セントラル美術館に須田寿自選展開催、戦後の作品から85点出陳する。
1978年 立軌会三十周年展を開催、創立よりの会の経過を回顧する。「太陽のある村」「耕土」「曠野にたつ」を出品。前年の自選展出品作「白い家」が文化庁買上となる。武蔵野美術大学退任、名誉教授になる。5月ギャラリーミキモトにて森芳雄と二人展開催「遺跡にたつ」他を出品。10月立軌四人展(フジカワ画廊主催)第1回彩交会(牛島・飯島・山下・須田)開催。
1979年 第31回立軌展に「寒村」他を出品。3月第1回日本秀作美術展(読売新聞社主催)に前年度の「太陽のある村」が選出される。11月フジカワ画廊主催第1回個展開催、「石の家」「やどり木のある村」他19点を出品。
1980年 第32回立軌展に「ローマの女」等を出品。栃木県推挙にて紺授褒賞を受ける。第2回日本秀作美術展に前年度の立軌展出品作「寒村」が選出される。5月ギリシャ・トルコ方面に旅行。9月緑蔭小舎(成城・柳田邸)にて淡彩・デッサン・油小品等の小展覧会を開く。11月日本テレビ「美の世界」に登場、制作を放映する。
1981年 第33回立軌展に「帰郷」「平原」を出品、いずれもトルコ方面取材。
1982年 第34回立軌展に「門」「石」を出品。第4回日本秀作美術展に前年度の「帰郷」が選出される。4月日本経済新聞社より「須田寿画集」出版。5月日本経済新聞社主催により日本橋高島屋にて「須田博展」を開催。戦後からの作品51点を自選して発表する。第6回長谷川仁記念賞受賞。
1985年 第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。
1993年 4月世田谷美術館で「須田寿展」を開催。
2001年 中村彝賞受賞。
2005年 1月肺炎のため東京都世田谷区の病院で逝去(享年98歳)。